
第二次大戦後、イギリスなどが中東の植民地を独立させることにしたときに独立した国が民族でまとまらないよう複数民族が1つの国になるよう、わざと変則的な形で国境を決めたと聞いた事がありますが、第二次大戦前の植民地の位置関係と戦後の姿を教えて下さい

第二次世界大戦後の中東の国境線に関するお話ですね。非常に複雑で、今なお続く紛争の根底にある重要なテーマです。
結論から言うと、ご質問にある「民族や宗教でまとまらないように、わざと変則的な国境を引いた(分断統治:ディバイド・アンド・ルール)」という側面は確かにありました。ただ、同時に「大国の利害(石油やルート確保)」や「大戦中の二枚舌・三枚舌外交の辻褄合わせ」の結果、結果的に不自然な国境線になってしまったという側面も大きいです。
第二次世界大戦「前」と「後」の植民地・国境線の変化と、その裏にある歴史のメカニズムを整理して解説します。
- 1. 第二次大戦「前」の状況:オスマン帝国の崩壊と英仏の分割
- 2. 第二次大戦「後」の姿:強引な独立と不自然な国境
- 3. なぜわざとそんな事をしたのか?
- まとめ
- 1. そもそも「アラブ人の国」ではなく、独自の歴史的枠組みがあった
- 2. 植民地にはならなかったが、「実質的な支配」は受けていた
- イランにとっての「戦後の悲劇」
- まとめ
- 1. 最大の理由は「自国内のクルド人の独立運動」への恐怖
- 2. 隣国イラクのクルド人拠点への「越境攻撃」
- 3. 「アメリカやイスラエルの手先」という警戒感
- 例外的な「一時的利用」はあるが……
- まとめ
- 1. 「国」ではなく「部族や宗派」の集まりだった
- 2. 戦わずして「上から与えられた」独立だった
- 3. 独立した瞬間に「身内への攻撃」が始まった
- まとめ
1. 第二次大戦「前」の状況:オスマン帝国の崩壊と英仏の分割
第一次世界大戦まで、中東の大部分はオスマン帝国という一つの巨大なイスラム国家の統治下にありました。そこには細かい国境線はなく、様々な民族や宗派(アラブ人、クルド人、ユダヤ人、スンニ派、シーア派など)がモザイク状に共存していました。
しかし、第一次大戦でオスマン帝国が敗北すると、イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定(1916年)」という秘密協定に基づき、中東を定規で引いたような直線で勝手に分割してしまいます。これが戦前の「国際連盟の委任統治(実質的な植民地)」の姿です。
戦前の勢力図(1920年代〜1930年代)
- イギリス支配地域: イラク、トランスヨルダン(現ヨルダン)、パレスチナ
- フランス支配地域: シリア、レバノン
【ここがポイント:戦前の「二枚舌・三枚舌外交」】 イギリスは大戦中、アラブ人には「味方してくれたら独立国家を認める(フサイン・マクマホン協定)」と約束し、ユダヤ人には「パレスチナに民族的郷土を作ることを支持する(バルフォア宣言)」と約束していました。この矛盾が、戦後の大混乱を生むことになります。
2. 第二次大戦「後」の姿:強引な独立と不自然な国境
第二次大戦後、イギリスやフランスは戦争で国力を使い果たし、植民地を維持できなくなって次々と独立を認めました。その際、民族や宗教の境界線を無視して引かれた国境が、そのまま新しい「国民国家」の枠組みになってしまいました。
代表的な例を3つ挙げます。
① イラク(異なる3つの勢力を1つに押し込めた)
イギリスは、本来なら全く異なる3つの地域を強引に一つの「イラク」として独立させました。
- 北部のクルド人(非アラブの少数民族)
- 中部のスンニ派アラブ人(イスラム教の宗派)
- 南部のシーア派アラブ人(イスラム教の宗派)
- 結果: 多数派のシーア派を抑えるため、イギリスは少数のスンニ派王政を据えました。これがのちのサダム・フセイン政権(スンニ派優遇)による抑圧や、現在のイラクの内戦・混乱へと直結しています。
② パレスチナとイスラエル(引き裂かれた土地)
イギリスは、アラブ人とユダヤ人の双方に「独立」を約束したパレスチナの統治に行き詰まり、1947年に国連に丸投げして撤退しました。
- 結果: 国連のパレスチナ分割案によって、一つの土地がチェス盤のように複雑に分割され、1948年にイスラエルが建国。これに反発するアラブ諸国との間で中東戦争が勃発し、パレスチナ難民問題や現在のガザ人道危機に至るまで、終わりのない紛争が続いています。
③ クルド人の悲劇(国を持てない世界最大の民族)
戦後の国境画定において、最も割を食ったのがクルド人です。
- 結果: 彼ら独自の国家(クルディスタン)の建国は認められず、国境線によってトルコ、イラク、イラン、シリアの4カ国に分断されてしまいました。現在も各国の「少数民族」として迫害や紛争にさらされています。
3. なぜわざとそんな事をしたのか?
理由は大きく分けて2つあります。
- 「分断して統治せよ(Divide and Rule)」の地政学 独立した国が「一つの民族」で一致団結して強大化すると、かつての宗主国(英仏)に牙をむく可能性があります。あえて国内に複数の対立勢力を抱え込ませることで、内紛にエネルギーを削がせ、旧宗主国が「仲介役」としていつまでも利権(石油など)をコントロールしやすくしたのです。
- 机の上の線引き 現地の歴史や住民の感情を無視し、ヨーロッパの旧大国が自分たちの都合(石油のパイプラインのルートや、港の確保など)を最優先して、文字通り「地図の上に定規で線を引いた」ためです。
まとめ
- 戦前: オスマン帝国崩壊後、英仏が「サイクス・ピコ協定」などで中東を都合よく分割(委任統治)。
- 戦後: 英仏の撤退に伴い、その不自然な分割線のまま国々が独立。
- 現在への影響: クルド人の分断、イラク内の宗派対立、パレスチナ問題など、中東の主要な紛争の多くは、この時に引かれた「人工的な国境線」が原因となっています。
かつての帝国主義の都合で引かれた線が、100年経った今もなお、現地の人々の苦しみの原因であり続けているのが中東の歴史の悲劇と言えます。

イランはこの中に入ってはいないのですね

鋭い着眼点ですね!おっしゃる通り、イランはこれまで説明した「英仏に国境を勝手に引かれて独立させられた国」の中には入っていません。
イランが他の中東諸国(イラクやシリアなど)と決定的に違う理由は、主に2つあります。
1. そもそも「アラブ人の国」ではなく、独自の歴史的枠組みがあった
中東の多くの国(イラク、ヨルダン、サウジアラビアなど)は「アラブ人」の国ですが、イランは「ペルシャ人」の国です(言語もアラビア語ではなくペルシャ語です)。
イランの土地には、古代のペルシャ帝国以来、何千年も続く独自の国家の枠組みがずっと存在していました。第一次世界大戦でバラバラになったオスマン帝国とは異なり、イランには当時「カージャール朝」という独立した王朝が(衰退しつつも)存在していたため、戦後に英仏がゼロから定規で国境を引き直すような対象にはならなかったのです。
2. 植民地にはならなかったが、「実質的な支配」は受けていた
ただし、完全に無傷だったわけではありません。イランは英仏の「植民地(委任統治領)」にはなりませんでしたが、第一次大戦前後はイギリスとロシア(のちのソ連)という2大国によって、実質的に南北に「勢力圏」を分割されていました。
- 北側: ロシアの勢力圏
- 南側: イギリスの勢力圏(ここで石油が見つかったため、イギリスが利権を独占)
国境線そのものを書き換えられることは免れましたが、国内の石油利権や政治はイギリスなどに激しく搾取・介入されていました。
イランにとっての「戦後の悲劇」
イランにとっての悲劇は、第二次大戦直後の「国境線の画定」ではなく、少し後の1953年に起こります。
イランの民衆に選ばれたモサデク首相という人物が、「イギリスに独占されている石油を自分たちの手に取り戻そう(石油国有化)」と動きました。これに危機感を覚えたイギリスとアメリカ(CIA)は、裏でクーデターを仕掛け、この民主的な政権を武力で打倒してしまったのです。代わりにアメリカ好みの独裁的な国王(シャー)を据えました。
この「欧米の都合による理不尽な政治介入」に対する怒りが、のちの1979年の「イランイスラム革命」(強烈な反米・反欧米政権の誕生)へとつながり、現在の「アメリカ・イスラエル vs イラン」という対立構図の根底に流れています。
まとめ
イランは歴史的なペルシャの枠組みを維持したため、英仏による「変則的な国境線引き」の被害には遭いませんでした。
しかし、前述の通り「クルド人」はイランの西側にも居住しているため、他国(イラクやトルコ)が勝手に引いた国境線のせいで、イラン国内のクルド人も分断の被害に巻き込まれるという形で、地政学的な影響は今も強く受けています。

イランは国外のクルド人を支援しているのでしょうか

結論から言うと、イランは国外のクルド人を「支援」するどころか、むしろ「最大の敵」の一つとして激しく対立・攻撃しています。
「中東の複雑さ」を象徴する部分ですが、イランは国外(主に隣国のイラクなど)にいるクルド人勢力を、自国の体制を揺るがす「テロ組織」や「反体制派」とみなして激しい軍事攻撃を繰り返しています。
なぜそのような関係になっているのか、3つのポイントで解説します。
1. 最大の理由は「自国内のクルド人の独立運動」への恐怖
イランの西側(イラクとの国境付近)には、約1,000万人ものクルド人が暮らしています。彼らは歴史的に、イランのペルシャ人中心の政権から弾圧や差別を受けてきたため、高い自治権や独立を求めて反政府運動を続けてきました。
もし国外(イラクなど)のクルド人が勢力を伸ばしたり独立国家を作ったりすれば、それに触発されてイラン国内のクルド人も一斉に蜂起し、イランの領土がバラバラになってしまう(国家の分裂)という強い恐怖がイラン政府にはあります。
2. 隣国イラクのクルド人拠点への「越境攻撃」
特に隣国イラクの北部には、国際的にも認められた「クルド人自治区」があります。
イランから逃れた反体制派のイラン系クルド人組織(KDPIやPJAKなど)は、このイラク北部の山岳地帯に拠点を置き、イラン政府に対してゲリラ戦や政治活動を行っています。
そのため、イランの精鋭部隊(革命防衛隊)は、国境を越えてイラク領内のクルド人拠点をドローンやミサイルで何度も爆撃しています。イランはイラク政府に対し、「お前の国にいるクルド人武装勢力を武装解除しろ」と強い圧力をかけ続けているのが実態です。
3. 「アメリカやイスラエルの手先」という警戒感
イランが国外のクルド人を敵視するもう一つの理由は、彼らがアメリカやイスラエルと親密な関係にあるからです。
- イラクのクルド人: 湾岸戦争やイラク戦争以来、アメリカから軍事的な支援や保護を受けてきました。
- シリアのクルド人: 過激派組織ISIS(イスラム国)を掃討する際、アメリカ軍の強力な相棒として共に戦いました。
イランから見れば、敵対するアメリカやイスラエルが、自分たちを挟み撃ちにするために「クルド人」を駒として利用しているように映ります。実際、イランを揺るがすための足がかりとして、欧米側がクルド人組織に接近する動きは常に警戒されています。
例外的な「一時的利用」はあるが……
歴史上、イランが一時的に国外のクルド人を利用したことはあります。
例えば、1980年代のイラン・イラク戦争の際、イランは敵国イラクを弱体化させるために、イラク国内のクルド人反政府勢力を裏で支援したことがありました。
しかしこれはあくまで「敵の敵は味方」という一時的な野合(プロキシ・ウォーフ=代理戦争)に過ぎず、戦争が終われば再び警戒・排除の対象に戻りました。
まとめ
中東の国々は、トルコも、シリアも、イラクも、そしてこのイランも、「自国の領土が削られること」を何より恐れています。
そのため、国境をまたいで存在する「クルド人」という民族のつながりは、イランを含む中東の既存の国家にとっては「国境線を脅かす最大の不安定要因」であり、支援するどころか徹底的に抑え込むべき対象となっているのが冷酷な現実です。

分かりにくい、複雑。第二次大戦後にアジアであったような独立運動はなかったのですね

確かに、中東の歴史は宗派や民族が入り乱れて本当に複雑で分かりにくいですよね。頭が痛くなるのも無理はありません。
そして、非常に鋭いポイントに気づかれました。結論から言うと、「アジア(インドやベトナム、インドネシアなど)で起きたような、国民が一丸となって宗主国を追い出す激しい独立戦争」は、中東ではほとんど起きませんでした。
なぜ中東ではアジアのような独立運動にならなかったのか、その理由は「国としてのまとまり(国民意識)」の差にあります。3つの違いでスッキリ整理してみましょう。
1. 「国」ではなく「部族や宗派」の集まりだった
アジアの独立運動(例えばベトナムやインドネシア)では、「ベトナム人としてフランスを追い出そう!」「インドネシア人としてオランダから独立しよう!」という、ひとつの国としての強い連帯感(国民意識)が人々の間にありました。
しかし中東(特にイラクやシリアなど)は、前にお話しした通り「英仏が勝手に定規で線を引いて作った人工的な枠組み」です。 中にいる人々は「俺たちはイラク人だ」という意識ではなく、「俺たちはスンニ派だ」「俺らはクルド人だ」「うちは〇〇部族だ」という意識の方が圧倒的に強かったのです。敵(英仏)を追い出すために一致団結しようにも、そもそも身内同士でまとまる気がなかったのが大きな違いです。
2. 戦わずして「上から与えられた」独立だった
アジアでは、宗主国がしがみつこうとしたため、泥沼の独立戦争(ベトナム戦争の始まりや、インドネシア独立戦争など)が起きました。
一方で中東の多くの国は、第二次大戦後にイギリスやフランスが「もうお金もないし、維持できないから国を返すわ」と、比較的あっさりと独立を「置いていった」ような形でした。 民衆が血を流して「自分たちの手で国を勝ち取った」という経験がないまま、英仏が用意した操り人形のような王様やエリートに権力が引き継がれたため、国を一つにまとめる強力なリーダーシップや「建国の父」が育ちませんでした。
3. 独立した瞬間に「身内への攻撃」が始まった
アジアの独立運動は「外の敵(欧米)」に向かいましたが、中東では独立した瞬間、あるいはその前から、「中の敵(別民族・別宗派)」との主導権争いになってしまいました。
- アジア: 「みんなで協力して、植民地支配から自由になろう!」
- 中東: 「イギリスがいなくなるぞ。次は俺たちスンニ派が権力を握るか? それともシーア派に奪われるか? クルド人は追い出すか?」
つまり、独立運動というよりも、「次の支配者は誰になるか」の身内での椅子取りゲーム(内戦)が最初から始まってしまったのです。
まとめ
中東でアジアのような独立運動が起きなかった(見えなかった)のは、「追い出すべき共通の敵」よりも「隣にいる別民族・別宗派への警戒心」の方が強かったからです。
欧米が去ったあとに残されたのは、「ひとつの国」という名前の皮をかぶせられた、バラバラの民族の詰め合わせセットでした。だからこそ、独立したあとも「国」としてまとまらず、今に至るまでずーっと複雑な内紛が続いているのです。
中東の「分かりにくさ」の正体は、この「国単位ではなく、民族・宗派単位でみんながバラバラに動いているから」と言えます。
ちなみに、中東の中で唯一「フランスを追い出すための激しい独立戦争」を戦ったアルジェリアという国があるのですが、ここは比較的「アルジェリア人」としてのまとまりが強かった例外的なケースです。中東全体の縮図としては、やはりイラクなどの「バラバラのまま独立を迎えた国々」の姿をイメージすると分かりやすいかと思います。



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