戦争を知らない子供たち

なぜか時々「戦争を知らない子供たち」と言うフレーズが思い浮かびます。青春時代の思い出と結びついているのでしょう。ネットで調べると、それは1970年発表の反戦歌で、歌詞が賛否両論を巻き起こした”問題作”と出てきます。気づかなかった事だらけの当時を思い出してみました。
学生運動が盛んで、受験会場の受験席から、雪の積もった外にいる機動隊員が見えました。徴兵逃れで日本に来たヒッピーが、誕生日選別のくじ引きでベトナム戦争に徴兵されてしまったと残念そうに話していたこと。英語の勉強にと「Far East Network」のニュースを聞いていたが、ベトナム戦争の戦果ばかりだったこと。
当時は、ベトナム戦争の真っ最中で日本はアメリカの出撃基地で後方支援という形でした。自分達は戦争を知らないと言いながら、ベトナム戦争に協力するのかという意見があったのは当然ですが、気にした事はありませんでした。思い返してみれば、「学生運動」とは何だったのでしょう。「全共闘」、「ベ平連」、「連合赤軍」など、実際にはなんなのか分からないまま暮らしていました。
ベトナム戦争の徴兵を、誕生日で抽選して決めていたことは、アメリカ人にとっては重大事だったでしょうが、当時の日本で知っていた人はどのくらいいるでしょう。
そもそも「Far East Network」が米軍極東放送だと意識せずに、アメリカの雰囲気で洋楽と英語が楽しめるAMラジオ局ぐらいに思っていました。生きてきた時間の記憶をネットで調べるのは、過去を覗き見るようです。うっすらした記憶を辿ってみることにしました。

1950年頃から(幼児期)

1947年~1949年:第一次ベビーブーム。
生まれた第二次世界大戦後5年の頃は、人口急増現象(ベビーブーム)の最後で、すでに子供が溢れていました。後に団塊の世代と呼ばれる世代です。文化的な面や思想的な面で共通した一つの大きな塊となっている世代です。
1945年10月~1952年4月:他の敗戦国の占領が直接統治なのに対し、日本の占領では連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令を、日本政府が実施する間接統治でした。
1950年6月~1953年7月:朝鮮戦争。
ネットで調べると日本が、ほかの敗戦国が早期講和をして賠償や領土割譲を要求されたのとは違う戦後復興を選択した事がわかりました。「よき敗者」として振舞い、講和を急がず寛大な処置を勝ち得るまで占領期間を引き延ばしました。お金のかかる再軍備はしない選択です。
朝鮮戦争さなか(1951年4月)トルーマン大統領に解任されたマッカーサーは、米上下院合同会議で「もし原料供給を断ち切られたら1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」と述べました。
当時日本が一丸となって、マッカーサーとGHQを歓迎し、その意向に従っていたからの発言でしょう。私もアメリカ人は偉いと教えられて育ちました。
辛酸をなめた戦争が終わり、ともかく開放感で一杯だった時代のようでした。
多くの道路は未舗装で、横に水路があり(今では暗渠になっている)そこでザリガニを取ったり、蛍を取ったり、セミを取ったり、銀蝶を取ったり、地面の中のジグモを取ったり、バッタを取ったり、幼児期にはそんな遊びをしました。

1957年頃から(小学校時代)

小学校の頃の記憶としては、給食が思い浮かびます。アルマイトの容器に入った脱脂粉乳のミルクが、焦げたような変な味でまずかった。クジラの肉は黒くて硬かった記憶があります。アメリカの援助で給食を食べられると聞いていました。
Wikipediaなどによれば
1947年1月:主要都市の約300万人の児童に「ララ物資」を利用した学校給食が開始される。
1949年:ユニセフ(国連児童基金)から脱脂粉乳が贈られユニセフ給食が行われた。
1950年:アメリカ合衆国から小麦粉が贈られ都市で完全給食が行われた。
とあります。もう少し調べました。
給食の主体は「ララ物資」でした。戦後アメリカの善意の支援だと言われた「ララ物資」は、実は日本からの移民が送っていたことが分かりました。
当時のGHQは、この事実を日本人には隠していました。アメリカ合衆国における対外的な慈善活動の対象地域はヨーロッパのみであり、日本は含まれていませんでした。
アメリカから「ララ」の名前で、食料・医薬品・衣料・学用品などの大量の救援物資が当時日本に贈られました。「敵性国民」として強制収容されていた日本人・日系人たちが、祖国へ支援物資を送る為に奔走して「ララ物資」は実現していたのです。
このころは、子供で溢れていました。一学級は60人以上でした。めんこをひっくり返す遊びをしたり、地面にくぎを順番にさす遊び(釘刺し)をしました。
1959年:週刊少年サンデー、週刊少年マガジン創刊。
週刊漫画が楽しみでした。白黒テレビで「月光仮面」を見ていました。大きなバイクだったとの記憶がありますが、今その画像を見ると、ほぼスーパーカブです。ちなみに、それはホンダ製でスーパーカブ登場の1年前に発売されたバイクだそうです。

1963年頃から(中学校時代)

1964年: 東京オリンピック開催。
中学生になると、明らかに世の中が変わりました。もう、戦後は過ぎました。東京オリンピックが開催された1964年までが、戦後期だったと思います。
その頃から少しずつカラーテレビが普及していきました。当時は、白黒テレビのブラウン管を赤や緑の色ガラスに変えたものしか想像できませんでした。ブラウン管の特定部分だけに色が付けられるとは、空想すらできない出来事でした。昼間見ると薄暗かったです。
かなりの期間白黒放送とカラー放送が混在していて、白黒放送の番組の方が面白かった記憶があります。
1961年~1966年:バラエティ番組「夢であいましょう」が、毎週土曜日に放送されました。
プラモデルやゴム動力飛行機を作りました。ゴム動力飛行機は、まげた竹ヒゴとプラスチックのプロペラ、翼に貼る紙などがセットになっていました。
1963年:プラモデル「サンダーボーイ」発売。
豊富なアクション(前進左右回転、腕を回して砲丸投げ、頭頂部が開いてミサイル発射、目玉が回転)が面白かったです。
景気がよくなり、様々な商品が出回るようになりました。子供が多く高校受験が一大イベントになり、みんな塾に通っていました。
1963年~1966年:「鉄腕アトム」がテレビアニメとして放送。
「鉄腕アトム」に影響されたと語る人々が、こののち幾つも人型ロボットをつくります。たぶん皆第一次ベビーブーマーでしょう。

1966年頃から(高校時代)

受験戦争と言われるようになり、みんな塾に通っていました。
社会科は世界史を取りました。年号の暗記ばかりでしたが、不思議に思った事がありました。
(1)薩長同盟(1866年):単なる脱藩浪士の坂本龍馬が、薩長の間を取り持ち同盟締結時の仲介役になれたのはなぜか?
アメリカ南北戦争(1861年~65年)が終了して大量の鉄砲が余り、幕末の日本にジャブジャブ入って来ました。
ゲベール銃 :フランス製。 幕府に砲術の専門家として重用された「高島秋帆」らが大量に購入しました。主に幕府側で使われました。
エンフィールド銃:英国製ミニエー銃の別名。「坂本龍馬」が「亀山社中」を通して大量にエンフィールド銃を購入し、薩摩と長州に流すことで薩長両藩は幕府軍に対抗し得る戦闘力を持つことができました。
スペンサー銃:「南北戦争」直前にアメリカで発明された後装式七連発銃。南北戦争の北軍で使われ、日本には1866年に輸入されました。
「坂本龍馬」は 薩長から見れば、当時最大の武器商人だったので、意向を無視する事は出来なかったのでしょう。
(2)蒙古襲来:毒矢と「てつはう」を用いる元軍の集団戦法の前に 一騎討ちなどの戦闘法で日本軍は敗退を続けたが、神風で勝てたと教わりました。なぜ、すでに上陸していた元軍が、船にもどり神風で全滅してしまったのか?
Wikipediaに、沢山の情報が載っていました。
文永の役1274年(総計27,000~40,000人726~900艘の軍船)
10月20日元軍は博多湾に襲来。赤坂の戦い、追撃戦、鳥飼潟の戦いが行われた。朝8時頃開戦で、終結は夕暮れ18時頃でした。日本の鋭い倭刀と集団騎馬戦法による果敢な攻撃を受けて、元軍は船まで撤退しました。翌10月21日午前6時頃すべて博多湾から撤退しました。その撤退中に暴風雨に遭い13,500余人の不帰還者を出しました。
弘安の役1281年(総計540,000~556,989人4,400艘の 軍船)
元軍は日本軍の猛攻(志賀島の戦い・壱岐島の戦い・鷹島沖海戦)で苦戦し、二ヶ月近く海上に停滞したままになりました。そこで台風に遭い、大損害を出して混乱したところを日本軍の総攻撃を受けて、壊滅しました(御厨海上合戦・鷹島掃討戦)。元軍の捕虜は2、3万にも達しました。
この頃神社等により、元軍は神風で壊滅して日本側が勝利したという言説が流布されました。
その神社等の言説を事実だと授業で教えたのは、思想教育だったのかもしれません。

1969年頃から(大学時代)

受験があったのは、学生運動が激しくなり、安田講堂事件で東京大学の入試がない年でした。広島大学など、入学しても学生運動で授業が全くない学校があり、学生運動を嫌って親が退学届を出してしまった友達もいました。
当時の私には、大学紛争そのものが、小学校時代に日教組によって洗脳されてしまったから起きたのではないかという思いがありました。
日教組:1947年に結成された日本教職員組合で、組合員の多くが小学校や中学校の教職員です。教職員の待遇改善、地位の向上など教育課題に直接関係する活動だけでなく、政治的な活動を行っています。
戦争反対、憲法改正反対、卒業式や入学式での「君が代斉唱」反対、自衛隊反対、天皇制に反対などです。活動の一環として、授業による思想・歴史認識の強制を行っていました。
その事もあり、大学紛争が真っ盛りでしたがノンポリ(政治運動に関心が無い人)を決め込み、楽しい学生時代を過ごしました。青春真っ盛りの若者があふれているので、エネルギッシュでブンブン空回りし続けているような世の中でした。
そして、大学紛争は憑き物が落ちたように急激に収まり、皆何もなかったかのように公務員試験や企業の採用試験のため、長髪をやめました。

1973年~1980年(二十代)

1968年~1996年:ポケットベル。
ポケットベルは、ユーザビリティに欠ける商品でした。車を運転している時も、食事中も、会議中もお構いなしにピーピー鳴りました。その度に公衆電話を探したり、電話を借りたり、持っているだけで落ち着きませんでした。振動で知らせる機能と、送信側が要件の重要度で着信音を変えられる機能は最低限付いているべきだと思いました。
1972年:沖縄返還。
日本にとって、戦後一番重要な出来事だったと思います。戦争でとられた領土は戻ってこないのが通常なのに、よく返してもらえたものだと思います。太平洋戦争での無条件降伏にもかかわらず、北方4島を除けば、日本固有の領土はほとんど守られました。それに比べてドイツは多くの領土を失いました。
①第一次世界大戦の敗戦で、植民地すべてとヨーロッパの領土の13パーセントを失いました。
②第二次世界大戦の敗戦で、ナチスの対外拡大以前の領土の約四分の一を失いました。
1975年:サイゴン陥落。ベトナム戦争終結。
当時日本には、徴兵をのがれたヒッピーが大勢いました、それに引き換え、終戦直後のGHQには女性兵士が大勢いました。第2次大戦中は約15万人ものアメリカ人女性が婦人陸軍部隊や婦人陸軍補助部隊に勤務しました。看護婦を除いて、陸軍に務める最初の女性たちでした。アメリカは本気になるととてつもなく強くなるが、簡単には本気にならないということでしょう。
1977年~1979年:第4次マンションブーム
マンションが一般化して民間デベロッパーによる大型開発が増加しました。 ベビーブーマーが親元を離れる時期で、住居の選択肢として マンションが一般的なものとなりました。
1979年:第二次オイルショック

1981年~1990年(三十代)

1981年:「PC6001」パピコンが89,800円で発売。
ディスプレイに文字が書けたり、画像を動かせたり、音を鳴らせたりすごく感動しました。 ディスプレイ の中のものを操作する感覚は、新鮮でした。ASCIIから「AXシリーズ」というゲームパッケージが、月1本発売されてました。パッケージには、2~4本カセットテープに収録されたゲームが入っていました。
1982年:「PC9801」が発売。
モデムで電話回線と繋がりパソコン通信が出来ました。
1983年:任天堂から家庭用ゲーム機ファミコンが発売。
1986年12月~1991年2月:バブル景気が始まりました。日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象でした。1980年代後半には東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど、日本の土地価格が高騰しました。
1986年~1989年:第5期マンションブーム
バブル経済下で地価が急激に高騰し、都心では超高級物件が供給されました。ファミリー向けマンションの開発は郊外、地方に向かいました。そして、このあともマンションブームは繰り返されます。だんだん少子高齢化が進んでいくので、需要は先細りしそうなものです。そうならないのは、次々発売される新型の車や家電が売れるようなものなのでしょう。さて、この後何十年にも渡って続く、老朽化マンション問題はどうなっていくのでしょう。
1989年:ベルリンの壁崩壊

1991年~2000年(四十代)

1993年:Jリーグがスタートしましたが、日本には定着しないだろうと考えていました。サッカーが世界中で盛んなのは知っていましたが、人気のプロ野球にはとてもかなわないと思ってました。
将来、世界の情報がドンドン身近になっていくことを考えれば、Jリーグが盛んになることは当然でした。
1991年3月:バブルが崩壊しました。1993年~1995年には急速な円高が進行し、日本経済の「失われた10年間」と呼ばれました。
その後、円高を背景とした国内工場の海外移転。日本企業の海外工場建設等、海外進出が進みました。産業空洞化が心配され、景気低迷期になりました。
国内投資は減りましたが、円の価値が上がり海外投資がしやすくなり、海外資産が増え国際分業化が進みはじめました。日本経済が本当に大変な事態となるのは、もう少し後でした。
1992年:日本で初めてインターネットサービスプロバイダ(ISP)がサービスを開始しました。そのあとニフティサーブをはじめパソコン通信サービス事業者が相次いでインターネットとの相互接続サービスを開始しました。
固定電話の音声信号をモデムで電気信号にした通信(ダイヤルアップ接続)でしたが、インターネットが存在する世界になりました。当時は、企業や大学などで使用されるだけで、まだパソコンマニアは「パソコン通信」を使っていました。
1998年:日本長期信用銀行の経営破綻、一時国有化されることになりました。
1999年:「ノストラダムスの大予言1999年7の月に人類が滅亡する」という、意味不明の「終末ブーム」が盛り上がりました。

2001年~2010年(五十代)

2001年9月11日:アメリカ同時多発テロによって世界貿易センタービル崩落(9.11)。アメリカ経済が不確実性を高め、景気の世界同時減速が生じました。
2002年4月:ペイオフ解禁。銀行預金は預金保険法により、1金融機関1預金者あたり元本1,000万円までが保護の対象です。しかしこの頃、破たんが噂される金融機関が増え、バブル崩壊後の1996年から預金は全額保護されてきました。それが元本1,000万円までに戻りました。まだ、不良債権処理は進まず貸し渋り、貸し剥しによる倒産が多発していました。銀行もいくつか行き詰まり、就職できない人達が大勢発生しました。この時の不況が一番酷かったと思います。
2001年~2010年:インターネットが急速に普及。ADSLサービスが開始され、料金の低廉化と高速化が進みました。ネットで、ほとんどの事が調べられるようになりました。百科事典も辞書も新聞もいりません。最新の道路情報、商品の注文、料理のレシピなどネットがなくては暮らせなくなっていきます。その頃はネットが世界を繋ぎ、人種を超えての理解が進むのではと思っていました。
でも違いました。問題は、真実だと確信した検索結果が、事実の一つにしか過ぎない事です。Google検索では、検索する場所と言語で検索結果が異なります。
例えば、戦争や紛争について検索すれば、肯定的に事態を捉える記事が上位に出てくる国、 否定的に捉える記事が上位に出てくる国、解決を求める外交圧力に関する記事が上位に出て来る国もあります。自国にとっての真実は、他国にとっての真実ではないのです。そこに、フィルターバブル(まるで「泡」の中に包まれたように、自分が見たい情報しか見えなくなること)が重なります。
検索は“中立的”ではないし、ネットの情報は偏っています。
2003年:セブンイレブンが10,000店舗到達。コンビニエンスストアによって、町の形が大きく変わり始めました。地方の雑貨店、パン屋、ケーキ屋、本屋など皆なくなっていきました。

2011年~2020年(六十代)

2011年3月11日:東日本大震災(Mw 9.0)が発生3.11。巨大津波の影響で福島第一原子力発電所事故が引き起こされる。
2016年:イギリスでEU離脱を問う国民投票が実施され、EUからの離脱(ブレグジット)が決まる。
イギリスのEU離脱は、むしろ当然のように感じました。日本と同じような海洋国家が、多民族からなる大陸国家の一員でいるのは大変だっただろうと思います。ふと、17世紀初頭には世界中に植民地を持ったイングランドなら、ウェールズ、スコットランド、アイルランドを同化して一つの国にできたのではと考えました。しかし民族的相異、歴史的相異、文化的相違、宗教的相異と、軍事的攻防の歴史を知ると、とても無理だったと判りました。日本は平和な島国なんだと改めて感じます。
2012年12月~2020年8月:2度目の安倍政権。
アベノミクスを政策運営の柱に掲げました。その金融政策は「量的・質的金融緩和(異次元緩和)」で、2%のインフレ目標を掲げました。要するに円安政策で、民間企業の業績は回復していき、失業率は改善しました。それでも消費者の不安心理が大きく、消費は拡大しにくい状況のままで景気実感はそれほど改善しません。 不安心理が抜けない原因は、日本人が内向き志向になり、勇敢さや冒険心に乏しくなってしまったという事かもしれません。
2019年末:中国において、新型コロナウイルス感染症が発生。
パンデミックが始まる。ふと、核兵器より生物兵器、AI自立攻撃兵器、精密誘導ミサイルの方がずっと恐ろしい兵器ではと思いました。核で攻撃するためには、核爆弾を目的の場所に持っていかなければなりません。高価で巨大なミサイルは撃ち落されやすいでしょう。 精密誘導ミサイルなら、撃ち落されずに原子力発電所や対象国中枢を破壊出来るでしょう。AI自立攻撃兵器は、同時多発的な自爆テロよりも更に強力でしょう。生物兵器による攻撃は、気づかれることなく行われてしまうでしょう。なんだか、核兵器禁止条約は時代遅れになってしまっている気がします。

20021年~(七十代以降)
2021年7月~8月:新型コロナの影響で1年延期となった夏季五輪東京大会が開催される。
2021年後半:「悪い円安」と言われるようになる。
「悪い円安」に関するネットの記事をいくつも見かけます。その中には、世論誘導目的に書いているのではと疑ってしまうものまであります。
日本が輸出で稼ぐ構造から、対外金融資産で稼ぐ構造へと変化したため、原油など輸入品価格が上昇するなかでの円安が、悪い円安と評価されているのでしょう。確かに2020年度実質GDP成長率は、日本-4.59%で、アメリカ-3.4や韓国-0.84より低いです。
でも多くの人々が、これから先も円安環境が続くと考えれば、海外に出ていった企業が国内回帰してくるでしょう。
①海外で生産して日本で販売する商品は、円安の分だけ割高になる。
②海外の賃金と海外の物価は、これから先も上がり続ける。
③パンデミックによるサプライチェーン混乱が供給制約をもたらす。
④国内の方が海外製造と比べ、技術を保護しやすい。
⑤受注から生産までの時間を短縮することができる。
⑥日本で売るものを日本で製造するだけなので、輸出が増えるわけではない。
⑦円安で採算が取れれば、外国企業を誘致して国内で製造してもらう事も出来る。
⑧日本は世界最大の債権国なので、円安が止まらなくなるような事態は起こらない。
求人が増えて賃金は上がってくるでしょう。日本の将来に、期待を持っています。
2022年1月:新型コロナ第六波急速に拡大。

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